ルンバと髪と選挙と俺

告知/雑記

髪を切ってもらう時間は俺にとって苦痛そのもの。体も頭も動かさずじーっと座るのがどうにも苦手で、だからよく、自分で切っていた。後ろは手がつけられないから襟足は伸びがちだけど、前髪や横ならなんとかなる。限界になったとき、泣く泣く美容室に行く、そんなことを繰り返してきた。
いつだろうか、QBハウスを見つけたのは。最高の理容店だと思った。ラーメン屋のような券売機で券を買い、それを店員に渡し、15分くらいでさっと切ってくれる。「今日はお休みですか?」「このあと仕事っす」みたいな無駄な会話もない。空いてる時に行けば待ち時間も一切ない。完璧だった。
けどいま、そんなQBすら行っていない。1年ほど髪を切っていない。
そもそも頻繁に髪を切る必要がないことに今更ながら気づいてしまったからだ。むしろなぜ今まで2〜3ヶ月に一回のペースで髪を切っていたのか、とてもとても不思議でならない。学校を出て、雇われも少しやり、そんな中で無意識に「普通」という透明なルールに縛られていたんだろう。「普通はこれくらいで切るもの」「清潔感とはこういうもの」。知らんがな。どうでもええわ。
俺が俺の快適性を追求すると、どんどん削ぎ落とされていく。裸足にサンダルが一番ラクだし、結局水が一番美味い。物質的に豊かで高度に複雑化した現代は、俺にとって無駄が多く、その中にいると感覚が鈍る。
今日のネットは、「選挙速報」「自民圧勝」「当選確実」とどこもかしこも選挙の話だ。投票には行った。けれど、政治もどうでもいい。誰が国を経営しようが大して変わらん。
麻生太郎はかつて、「政治に関心を持たなくても生きていけるというのは良い国。考えなきゃ生きていけない国のほうがよほど問題」と言った。だとすれば、今は「問題」フェーズにいるのかもしれない。
未来が不確実だからこそ、誰もが不安だからこそ、まわりの目を気にせず、自分の感覚を研ぎ澄ませる。世の中の正解じゃなく、自分の正解を見つける。
謎の慣習も、政治も、推し活も、俺を保証してくれない。それらに流されるくらいなら、自分にフォーカスし、自分の選択に責任を持つ。髪を切る、切らない。投票する、しない。何を食べ、何を着る。些細な選択の積み重ねが人生をつくっている。
髪を1年切らなくたって、特に不利益はなかった。髪を切るという儀式からの解放は、予約の煩わしさからも、「そろそろ」という曖昧な義務感からも解放してくれる。それを知れた。
あ、問題あった。ルンバが壊れるようになった。

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元々針金のように硬い髪質をしている俺の髪はルンバのブラシによく詰まる。クルクル回る部分にガチガチに絡んで週に一度はエラーになる。しかし問題なんてその程度のもの。許容できるトレードオフ。
またルンバがエラー音を鳴らしている。ひっくり返して髪の毛を取り除く。これが選んだ快適さの代償。俺は俺の選択を引き受ける。

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