痛みを伴う動きは、捨てていい

腰痛

 

 

痛みを抱えて頑張ってきた人にとって、「頑張らない」という選択肢はなかなか取れない。

真面目であるほど、自分を責めてしまうし、「この痛みすらも成長の一部」と思いがちである。

痛くても、何かやらなきゃ、ダメになる

と、どこか強迫観念めいたものを抱えて、暴走していることも少なくない。

だからこそ、あえて言うと

「痛みを伴う動き」は、捨てていい。

 

 

がむしゃらにやればいいってもんじゃない

 

動作時の痛み

 

その解釈に自信があって、実際に痛みをうまく扱える人に、この話は関係ない。

常々言っているが、腰痛や膝痛など多くの身体の痛みは、科学であり物理である。

つまり、言語化可能であり、コントロール可能である。

しかしそれは、科学に精通していればの話であり、それはいわゆる“プロ”にも少ない。

有資格者であっても、「自分自身」の身体に生じる痛みのコントロールどころか説明できないことは、ざらにある。

 

動作時の痛み、そのほとんどは「危険信号」だ。

なんらかの「科学的エラー」をあらわしている。

つまり、無視して無理して続けても、良い結果は得られない。

むしろ悪化するのが常である。

正しいかどうか、進んで良いかどうか、自信を持って判断できないなら、いっそやめていい。

休んでよいし、別の方法を探せばいい。

それが“正しい努力”の仕方である。

 

続けるコツは「痛みのない方法」を選ぶこと

 

トレーニーでもない我々一般人の身体にとって、変化は、苦しみの先ではなく「快適さの積み重ね」の先にある。楽しむものである。

痛くなることを続けるなんて、嫌になっちゃうし、習慣の壁を越える苦しみと「痛み」はまったく違う。

癖を変える過程において、立ち方にせよ動き方にせよ、一時的にしっくりこないことはあり得る。が、その感覚と「痛み」は別。

座ってて痛くなるなら、その意識の仕方は不正解。苦しくて緊張するなら、何かが違う。そのまま進んで良いことはない。軌道修正が必要。

 

姿勢を変える、痛みを変えるなどの目的であれば、「快適さ」が大いなる指標になるし、極論、よりマシになる方向に向かい続ければよいのである。

研ぎ澄まされた感覚をもったうえで、本能に従い続ければ、科学もいらない。

自ら痛みに向かう、というのは、この文脈において、生きるセンスがないとも言える。

危機察知能力とか、そういう次元の話である。

だから俺はこれからも言い続ける。

やればいいってもんじゃないと。

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